あすらん blog

日々の独り言をつづっていきます

新潟中越から14年

新潟中越地震から14年になります

あの時は...私も震災の中心だった長岡市に務めており
隣の当時の市役所が全国からのボランティア物資の
倉庫と化していたのを記憶しています
1階部分は物資が集められて市役所としての機能を
していませんでした(上の階でかろうじて...)

空を数分単位でヘリが飛び交い、職場も一時ヘリポート
に使われたりしていました

山古志村の「全村避難」は映画「マリと子犬の物語」で
もあったように3箇所の高校に分かれての避難、自衛隊
そこに駐留して炊き出しなどを行っていました

いまでもヘリの音を聞くと当時のことが思い浮かびます



平成も終わりに近づく中、北海道で大地震!!
阪神淡路、新潟中越、東日本、熊本...震度7を記録した
地震が続き、さらに北海道も...

ただ、政府がなにもできないでいる中で、ボランティアの
活動が実際に復興を助けてきて、さらには被災者自身が
立ち上がってなんとか立ち直ってきています

阪神淡路の時点でなにも出来ないまま、5000人を超える
死者数を記録したのはまだ記憶に新しいですし
個人的には息子が4年後のその日に誕生し、誰かの生まれ変わりかな?
と思いながらも...私に余りに似ている息子を見ては
思いは伝わるかな?と涙したこともあります

そして、この新潟中越!!
特徴は震度5を超える揺れが1時間に3連発という...
それも縦揺れで新幹線も脱線してしまいました

阪神方面からのボランティアの多さにびっくりしながら
「もしこの次がきたら今度は俺たちが...」と子供たちにも
話していました
そして...入試合格発表日に...東日本が!!
津波原発という前代見ものともいう大震災でした

福島差別がはじまり、「福島全滅」と叫んで参議になった
議員さんも居ましたが、当時言われた福島の誹謗中傷の山は
隣だとは言え目を覆うほどでした
特に放射能に対するデマしか無い情報がいかに日本がデマが
流れやすく、訂正するものをも悪人とする風潮があらわになりました

それでも「八重の桜」で会津から立ち上がろうと地元の人たちが
頑張り、綾瀬はるかさんのスペンサー銃をもつ姿に
みんなが励まされたか...その後も番組が終わってからも
会津祭りには来ていて「山本八重」をやってくれていたそうです

戻りますが、震災時にはとなりである新潟へ福島から
大勢避難してきていて、TVでは「福島のローカルニュース」が
流れたりしていて、とても親近感が出てきたのを覚えています
日本はいまは西郷どんだといいますが、首相も桜島をバックにして
3度めの表明をしていましたが、会津から見たら...軽蔑ものですか?

そして、熊本、北海道とどれも特徴がある揺れと震災デマに
苦しみながら...でも地元民が立ち上がるしかないと伝えながら
協力してきましたね...被災者経験だからできること

某有名アルピニストさんが地震直後の北海道旅行を紹介したときに
「不謹慎だ」と叫ぶ何も知らない差別者さんたちがいましたが
東日本の時は、当時のカン首相やイシハラ都知事さんが被災者を
幽霊にして無視し、差別しようと悪い印象をばらまきましたが
都知事さんは徹底していました
「花見なんかやるな」と叫んで花見自粛、飲酒自粛を戒厳令として
太陽に吠えたようですが...
実は...被災地の酒屋さん?からのメッセージ...
「そっちはそっちで花見をやってください。お酒も飲んでください」
と...
それならと...「献杯!」と叫びながら、どうせなら被災地のお酒をと
みんなが飲んだので、2011年の被災地の日本酒ビールなどの
出荷量が歴代1位、例年比でも福島で1割増、宮城・岩手も2割以上の増

今回の北海道でも...お仕事でてんてこ舞いしてもらうくらいで
復興の手助けになるかな?
そもそも北海道の大半は電気が通った時点で元に戻っているわけですから
「不謹慎だ」と叫んだ人たちの見識の狭さは...同じ国民と言いたくなくなります

さて...それでも亡くなった方を思うと...そして震災の報道を
聞くたびに...うつになってしまいそう...
家族や友人、恋人、恩師...さまざまな人を亡くして悲しかった
ことって...またよみがえってしまいますね

亡くなられた人に...献杯!!